首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

ボランティア

今日はボランティア。朝は5時から所属倶楽部で試合運営のお手伝い。

僕の役割は8時前には終わった。そのままクルマを飛ばして職場へ。今日もいつもどおり普通に働いた。さすがにクタクタではある。

去年までなら、ゴールデンウィークはダラダラと過ごしていた。それが普通だった。自分でもこの変わりようには驚く。あの苦痛極まりなかった銀行を辞めて、自分の中で何かが変わったのだと改めて認識する。

最後にもう一度だけ、ドラッカーの「ネクスト・ソサイエティ」から引用してみる。

そのような競争のあとでは、ますます多くの成功した知識労働者たちも、40代、50代にして燃え尽きることになる。すでに来れるところまで来てしまったことを自覚する。

沖縄人が差配する職場では、ナイチャーは叩かれるだけで叩かれ、搾り取られるだけ搾り取られる。限られた椅子には沖縄人だけが座る。耳栓をされた状態での椅子取りゲーム。全くもって、酷い銀行だった。

僕はもう来れるところまで来てしまった。沖縄にいる限り、もう僕はこれまでのような「キャリアを積み上げる」という生き方は放棄せざるを得ない。

そのとき、できることが仕事だけであるならば問題が生じる。したがって知識労働者たる者は、若いうちに非競争的な生活とコミュニティをつくりあげておかなければならない。


コミュニティでのボランティア活動、地元のオーケストラへの参加、小さな町での公職など仕事以外の関心事を育てておく必要がある。やがてそれらの関心事が、万が一にも仕事に燃えつきたとき、貢献と自己実現の場を与えてくれることになる。

贈与的な生き方。とにかく与え続けること。見返りは一切期待しない。沖縄人コミュニティでは、与え続けることでしか、ナイチャーは居場所を見つけられない。情はあるかもしれないが、義のないこの沖縄では、裏切られてもそれが当然と思わなければやってられない。

倶楽部役員はボランティアだ。しかも、僕は下っ端。便利に呼び出され、お爺さんたちの使いっ走りに使われる。でも、それでいいのだ。そういう形でも僕はとても幸せだ。あの銀行のリスク管理で、営業企画で、内部監査で。悪意をもって接せられた記憶、いじめの記憶からすれば、ここは天国のようだ。

ひとつづつ、僕の貢献と自己実現の場を見つけていけたらいい。まずは倶楽部でのコミュニティづくり。そして徐々に他の分野でも。