首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

知識労働者

知識労働者として働き抜くか、それともこれまでやったことのない肉体労働者としての働き方に変えるか。これを悩み続けて1か月が経過しようとしている。

知識労働者という言葉の発案者、ドラッカーの旧著、「ネクスト・ソサイエティ」を何年かぶりに取り出した。次の一節を改めて確認したかったからだ。

知識労働者にとっても、他のあらゆる人間にとってと同様、金は重要である。しかし、彼らは金を絶対的な価値とはしない。自らの成果や自己実現の代替とは認めない。仕事が生計の資だった肉体労働者と違い、知識労働者にとって仕事は生きがいである。

仕事はカネじゃない。しかし、カネのためと思わなければやってられない。沖縄に来てから、いや正確にいえば、沖縄人と仕事をするようになってから、そんな感想を抱くようになった。知識労働者としては働けない。肉体労働者に徹しなければ働けない、と。

沖縄人の経営者は、「お前を働かせてやっているんだ。貧しいんだからどうせ辞められないんだろ?」とタカをくくっているところがある。時代錯誤も甚だしい。甘く見ないでもらいたい。

実際のところ、僕はこれまで知識労働者としてしか働いたことがない。それが良いか悪いか、正しいか間違っているかという問題ではない。ただ、大学を卒業して初めて職に就いたときから、知識労働者として、プロフェッショナルとして働くという覚悟を持ち続けてきたことだけは確かだ。

東京の銀行に入ったのは、そこの調査部で研究職として働きたかったからだ。就社ではなく就職。初めての転職を覚悟したのも、銀行が国有化され、今後エコノミストあるいはリサーチャーとして処遇できないと人事から告げられたのが唯一の理由だった。

彼ら(注:知識労働者)は自らの専門分野では高度の流動性を持つ。大学、企業、政府機関を変わることに抵抗がない。

霞が関に転じた時は収入が大きく下がった。年金や社会保障も不利になった。それでもカネのことはまったく気にならなかった。やりたいことがそこにあったから、「プロとして、是非力を貸してほしい」といわれたから働く場所を変えただけ。やることは同じ。職を変えたとは思わなかった。

沖縄では、僕のような”知識労働者”には働き場所がない。ドラッカーがいうところの「20世紀以前には存在していなかった新種の知識労働者」という存在に対して、沖縄人はまったく価値を認めない。

もっとも、沖縄人は極度の権威主義だ。琉球王朝の時代から存在していた旧来の知識労働者には必要以上の敬意が払われる。医師とか、弁護士とか、教師とか。このあたりは全くもって分かりやすく、面白いところだ。
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それはともかく。さて、今後僕はどうやって働いていこうか。どのように折り合いを付けていこうか。

今日、知識労働者の帰属意識の回復が論じられている。しかし、そのような試みはほとんど無益である。彼らといえども、組織への愛着はもつ。居心地の良さも感じる。だが、その忠誠は自らの専門分野にある。

誰だって自分の所属する組織に愛着を持ちたいと思っている。組織に帰属することの心地よさ、仲間や上司とわいわい酒を酌み交わすことの楽しさも僕は十分に知っている。

ただ、その組織に「忠誠を尽くせるか」と問われるとしんどい。率直に言って、即答するのは難しい。

もちろんサラリーマンである以上、組織に対して貢献をしなければならない。それを「忠誠と尽す」ことだというのであれば、もちろん僕も組織に対して全力で忠誠を尽す。この歳になって、「忠誠を尽すのは専門分野に対してだけ」なんて奇麗事をいっていられないことは十分に承知している。

ところが、沖縄では組織への忠誠の尽くし方、貢献の仕方が何とも独特で難しい。しかも、さまざまな局面で忠誠度の強さを競いあわされる。本土の人間にはそのルールが全く分からない。否応なしに闘いの場が設定され、その後なし崩し的に場外戦へと持ち込まれる。場外では理不尽なイジメが半端なく続く。

もういい。十分に沖縄の銀行で学びつくした。あの苦汁は残りの人生の中でもう舐めたくない。本土から来た人間を憎み、嫉妬に狂う沖縄人。あなた達と働くのはもうコリゴリだ。あなた達と訳のわからない戦争をしたくないんだ。頼むからもう刃を向けないでくれ。

この地で沖縄人に雇われる限り、ナイチャーは肉体労働者になるしかない。

穏やかに、安らかに生きようとするのであれば。