首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

祝・ロードスター生産90万台

今朝の新聞に「マツダロードスター90万台、4度目ギネス申請へ」との記事があった。
ロードスターは1993年に僕が生まれて初めて購入したクルマだ。つまり、90万台に僕の愛車も含まれている。1998年にこれを手放してから僕はクルマを購入していないから、唯一所有したことのあるクルマということでもある。僕はこのクルマが今でもホントに大好きで、現在も首里の自宅の玄関には、このクルマの銀色のプラモデルと当時握っていた実物のステアリング・ハンドルを飾っている。

22年前に登場したマツダの2人乗り小型オープンスポーツカー「ロードスター」が4日、累計生産台数90万台に達した。同社はこのタイプでは世界一として4度目のギネス記録を申請する。

90万台目は4日未明、マツダ本社工場で生産ラインから滑り出した。開発主査は「世界中でロードスターを支持してくださったお客様のおかげ」とコメントした。

海外での人気ぶりが目立ち、累計販売台数は北米の42万台が最多。欧州の27万台、国内の16万台と続く。

ハイブリッド車などのエコカーへの人気が高まる中、「操る楽しさ」を前面に出したエンジン車は100万台に向けてしたたかに生きている。(朝日新聞・大阪14版10面)

今回の記事をうけてネットサーフしたところ、ロードスターについて今まで知らなかったことをたくさん発見した。なんだか一気にこのクルマに持っていた愛着がよみがえり、少しだけそのときこと、このクルマを手に入れるまでの気持ちを表現しておきたくなった。

ロードスター (Roadster) は、マツダが生産している2人乗りオープンカー(ロードスター)である。自然吸気のレシプロエンジンを搭載し、駆動方式は後輪駆動。


バブル期のマツダ・5チャンネル戦略の一環として設立されたEunos(ユーノス)店専売モデルの初段として ユーノス・ロードスター の名で1989年8月に先行予約を開始、同年9月1日に発売された(北米での発売はそれより早く同年5月)。


発売当時、小型のオープン2シータースポーツというカテゴリーは市場からほぼ死滅状態であった。1970年代から自動車に対する消費者の嗜好が快適性重視に変わっていったことや、年々厳しくなる北米の衝突安全基準をクリアできなかったことなどがその理由である。しかし、マツダはその間、北米を中心とした度重なる市場調査によって潜在需要が非常に期待できることを掴んでおり、自動車業界の冷ややかな予測に反し、発売後瞬く間に世界中で大反響を呼んだ。マツダ・ロードスター - Wikipedia

ロードスターを初めて見たのは実は日本ではない。ニューヨーク州のイサカという小さな町だった。イサカというのは大学町で、当時僕はこの町にあるコーネルという大学に留学をしていたのだ。大学のキャンパスはとにかく巨大で、最初に入った留学生寮(ドミトリー)はキャンパスの北東の隅にあったのだが、移動手段を持たない僕はしばらくしてからメインキャンパスに続く通り沿いのドミトリーに移ったのだった。ある日、部屋の窓から下を見たとき、青色のスリッパのような見たことないクルマが止まっていた。これがロードスターとの出会いだった。wikipediaの記事で、これが日本での正規発売前のことだったことを知った。

この青いクルマはずっとこの場所に止められていた。近くに住む先生か学生が購入したのだと思うが、どんな人が運転していたかは記憶にない。ただ、真夏の明るいキャンパスタウンを颯爽と駆ける青いオープンカーはとにかくカッコよかった。しかも、このクルマはまぎれもなく日本車なのである。学生達ともドミトリーの食堂で「あのマッダ(Mazda)のミアータ(Miata)、イケてるよね」てな会話をした。マツダの地道なマーケティングは的中したのだ。日本から来た貧乏学生は自分が褒められているようで、ちょっと鼻が高くなった。

もうその時から、自分が乗るならこのクルマしかない、と決めていた。もちろん、仕送りで下宿させてもらっている分際では自分のクルマなんて買えるわけもなかった。帰国してからは、カタログをもらって眺める日々。Car Graphicとか、当時発刊されたばかりのNAVIとか、硬派な自動車雑誌で絶賛記事が載るたびに、なんだか自分のクルマが褒められているようでうれしかった。

大学を卒業、東京に本店を置く銀行に入行することになった。社会人としての生活は中野と練馬の境、豊玉というところにある独身寮で始まった。豊玉寮には寮生用の駐車場が何台分か付設されていたがすでに先輩方が使用中。当時はバブルの最末期。ちょっと関心のある人なら、1991年は日本の不動産価格がピークをつけた年だということをご存知かもしれない。

だから当時、寮の外で自費で駐車場を借りるとなると、屋外でも3万円以上したのだ。安い初任給のもと、とても自力では借りられない。ちなみに当時の寮費は光熱費込みで3,600円、付設の駐車場代は1,000円。ホントに信じられないが、そんな時代だったのだ。僕は自分の名前を「駐車場待ちリスト」の長ーい順番待ちの最後に書き込んだ。

二年待って、やっと順番がまわってきた。何回も何回も自転車で通ったディーラー「ユーノス上石神井店」の担当さんとがっちり握手。ついに練馬ナンバーの銀のロードスターは豊玉寮の駐車場にやってきたのだった。ユーノス・ロードスターは“ユーちゃん”という名前を与えられた。

出会いのお話はここまで。それから銀行が破綻するまでの6年間、僕はこのクルマと日々を一緒に過ごすことになった。