首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

震災義捐金

ここ数日、自分に何ができるか、を考えている。友人が困っていれば手を差し伸べる。今回の地震でもいくつかの方法でやってきたし、これからもこれまで以上に行うつもりだ。それにしても、今回の地震は紛うことなき「国難」だ。直接の友人・知人に手を差し伸べるというだけでは気持ちの収まりがつかない。日本人として、人間としてやらなければならないことがある。でも、自分に何ができるか。

やれることはたくさんある。まずは沖縄へ避難してくる人々への直接の支援。時機をみてボランティア休暇を取ることも考えている(当社には残念ながらまだそういう制度はないが)。また沖縄を代表する企業で働いている以上、県民の「支援したい」「ボランティアしたい」という気持ちを受け止められるような、そんな新商品を開発することも自分の果すべき役割だろうと思う。アイディアを練りこみ、タイミングを見計らって提案するつもりだ。

さて今回、お金でできることについては、できる限りのことをしたいと思っている。どうやってお金の面で貢献するか、一番いい方法は何かを考えている。候補の一つが「震災義えん金」という名の寄付である。いまは「義援金」と表記されているが、本来この言葉は明治につくられた和製漢語の「義捐(ぎえん)」とするのが正しい。wikipediaには「戦後の国語改革で“捐”が当用漢字に採用されなかったため、“義えん金”と混ぜ書き表記する。一部で“義援金”という表記が見られるが、これは新聞協会による独自の基準で定めた代用表記である。」とある。これについて医師の熊田政信氏は随想文で次のように指摘した。

例えば「義捐(ぎえん)」という単語を、「捐」という字が当用漢字表にないという理由からそれと音が同じ「援」で書き換え、「義援」と表記することです。「捐」という漢字は、「すてる」「なげうつ」という意味です。つまり、「義捐」とは、非常に大切なもの(例えばお金)を、とても惜しいけども義のためとあらばなげうとうという、非常に葛藤に満ちた言葉なのです高島俊男「お言葉ですが・・・」文春文庫)。


ところが、「義援」と書いてしまうと、義捐という葛藤に満ちた行為を非常に奇麗事にしてしまい、また、義捐を受ける側にもなげうった人の葛藤を察しにくく、その分感謝の気持ちが少なくなる様な気が私にはしてなりません。

阪神・淡路大震災を大きく上回ってしまった今回の震災被害。ここから復興するためには、国民としてこれまでにない血のにじむような努力が必要だろう。お金の面では、近い将来に大幅な増税も実施されるだろう。震災国債などの発行も必要になってこよう。いずれにせよ国民の負担は並大抵のものにはならないはずだ。それでも「不幸にして被災してしまった人々と地域」を、「幸運にも被災せずにすんだ残りの国民全体」で支えるという、法的拘束力を伴ったある種の資産再配分は絶対に必要である。これは強制的な徴税権をもつ政府が責任を持って遂行すべきだ。

それと並行して、個人の善意を的確に表現する手段、具体的には「義捐金のチャネル」を整備することが必要だと思う。「本当になんとかしなければ」と思っている国民は多いはずだ。もちろん増税については応分の負担はする。しかしそれでは気持ちの収まりがつかないのだ。関東大震災のあと建設された建物には、篤志の寄付によるものがいくつもある。日本赤十字社中央共同募金会への寄付はもちろん大切で意義があるが、うまく説明できないためらいがある。もう少し違う形での受け皿を準備できないだろうか。日本においては寄付文化が根付かない、といわれるが、それは潜在的にある善意や篤志を表現する手段が限られているからだと思う。善意や篤志の潜在力。今回はきっととてつもなく大きいはずだ。それを受け止めるような制度作りを国会は急ぐべきではないか。

例えば、英国にあるペイロール・ギビングという制度はどうだろう。これは、従業員が企業主と契約し、税引き前の給与から一定額をチャリティに寄付するものである。ポイントは、内国歳入庁の承認を受けた機関(Payroll Paying Agencies)にその寄付がプールされる点である。被承認機関は個々の従業員が指定したチャリティに対し、指定した額の寄付を毎月代理で行うのだ。震災復興を目的として、インフラ整備資金や精神的ケア費用、住宅再建支援基金などの単位で寄付を取りまとめる機関を作る。そんな感じのアイディアだ。

そんなことを考えながら改めて読み返すと、先の熊田先生の指摘にはとても深い含意がある。軽い気持ちの募金を集めるだけでは、正直言って日本の復興は難しいだろう。一人ひとりが「義捐」という言葉のレベル、すなわち「自分にとってもとても大切なものではあるが、それを義のために投げ打つ」という気持ちにならなければならない。そして、そのような気持ちを受け止める仕組みを国は全力で作り上げなければならない。なぜなら今は真の国難だからだ。

最後に愚痴をひとつ。先日の給料日に社内募金が回覧されてきた。詳細は記せないが、募金の目的も趣旨も決定プロセスも個人的には納得がいかないものだった。ちなみに役職ごとに募金金額が指定されていた。人事部に募金者名の報告も必要とされていた。なぜわが社はいつもこんな発想になるだろうか。。。