首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

マクロ経済学の新しい常識

今日は読書デー。池尾先生の新著「連続講義・デフレと経済政策-アベノミクスの経済分析-」を読む。

第2章の「マクロ経済学の新しい常識」が素晴らしい。はい、僕は非常識でした。勉強になりました。この10年ぐらい、体系的にマクロの論文を読むことをサボってました。


…あたりまでは、職場での研究と大学院での勉強で、ほんの触りだけだけれどもフォローはしていた。そう、マクロ経済学が「分裂状態を克服し、統一された分析枠組みの下での論争を謳歌」している状況は、それなりに体感していた。

要するに、経済学は大いに進歩し、経済変動を含めた多くの問題を統一的な枠組みの中で理解できるようになったという達成感が抱かれるようになっていました。
それは、今から考えると、ある種の思い上がりであったといえるかもしれませんが、そうした自信満々だったところに、金融危機が襲ってきたわけです。


これまで、「金融危機が起こりようのないモデルを用いて議論していた」と池尾先生はいう。通常のマクロ経済学のモデルでは、金融仲介機関は常に完全な機能を果たすか、もしくは金融仲介機関の介在なしに直接取引できるとされている。円滑な資金移転は常に摩擦なく行えると想定しており、金融仲介機関が機能不全に陥る事態は想定外というわけだ。

洗練・進化した米国においては、金融仲介機構の機能不全による混乱という意味での金融危機は起こらないのだ、と。しかし、金融危機は起こった。

わが国では1990年代に銀行危機(不良債権問題)を経験していますし、97年にはアジア金融危機も起こりました。これらの経験をしながら、日本の経済学者が金融仲介機構の重要性と金融仲介機構の存在をマクロ経済モデルの中に取り入れることの必要性をほとんど主張してこなかったことは、真摯に反省しなければならないと考えます。

問題は、こうした(銀行取り付けのような)金融仲介機構に関するミクロ経済学的な分析の成果がマクロ経済学の議論の中に十分には取り入れられてこなかったというところにあります。


あー、やっと理解できましたよ。先生がいつの間にかマクロの論客になってしまったその理由を。応用ミクロ、金融論、そして日本経済論の各分野で教鞭をとってこられたその集大成としてのマクロ。そういうことなんですね。

民間金融機関の行動を折り込んだマクロ分析、その重要性と意義については納得することができた。今回の著書では、第3章「ゼロ金利政策と金融政策」で民間金融機関のバランスシートを切り出した議論がなされていて興味深かった。でもこれはほんの入り口だろう。異次元緩和、長期国債買い入れが金融機関行動に及ぼす影響の分析が待たれるところだ。

ただでさえ難しいといわれる日本のマクロモデル構築。ここに金融機関の行動をモデルとして組み込でいくことになるのか。うーん。日本の銀行は想像を絶するくらい一貫性がなく、全くもって非合理な行動をする主体ですぜ、先生。