首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

『Bloody Daughter』

やっと『Bloody Daughter』を観た。(邦題・アルゲリッチ 私こそ、音楽!)

ものすごいものを見てしまった。こんなものを見てしまっていいのだろうか。それが感想。高校時代から崇めたてまつっている女神様・アルゲリッチ。禁中、御簾の中を覗いてしまったような罪悪感がある。

それにしても、この神様のピアノは相も変わらず圧倒的だ。冒頭、ワルシャワでのショパン。ピアノ協奏曲の練習風景に鳥肌が立った。手持ちのカメラで拾った音だからオーケストラは小さく、ピアノが極端に大きい。そのアンバランスさ、異常さがこの人の凄さを際立たせた。なんて音なんだ、まったく。

足元、ダンパーペダルを映した場面。このラヴェルの美しさといったら。監督である三女・ステファニーはこのシーンをモノゴゴロがついた頃、いやそれ以前から見てきたのだろう。そんな非常識な日常が次々と映し出される。

邦題の意図するところとは異なり、この映画の主人公はステファニーだった。2人の姉、そして戸籍には書かれていない父・スティーヴン・コヴァセヴィッチとの複雑な関係。彼女のこれまでの尋常でない、そしておそらく苦しかったであろう半生がフィルムに閉じ込められている。

そのフィルムにライトを当てて投影する。巨大なスクリーンに映し出されるのが母・マルタだ。GreatなMotherとBloodyなDaughter。血で結ばれたこの捻じれた構造でなければ、この孤高の天才の苦悩をここまで説得力をもって描くことはできなかっただろう。

アルゲリッチの歌声を初めて聞いた。こんなにオンチだったとは。妙な親近感がわいた。