首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

転宅

f:id:basel3:20080920170612j:plain:w200:right両親への敬老の日のプレゼントを探していて、ある曲のことをふと思い出した。

小学生の頃よく家に流れていた、さだまさしの曲だ。タイトルを「転宅」という。

ともかく暗い曲調だった。アレンジも地味だった。当時はカセットテープかレコードだったのでスキップしにくい。CDやiPodだったら確実に飛ばして聴いただろう。

はっきりいって苦手な曲だった。なにしろ、歌詞が何をいっているかよくわからない。単語の意味はわかるが、それを文章として把握することができないというか。ほとんどお経を聞くような感じだった。

今回、30数年ぶりに思い出し、聴き直してみた。今、初めてその歌詞の意味を知ることになった。しかも切実に。

 親父が初めて負けて
 大きな家を払った


 指のささくれ抜くみたいに
 後ろ向きで荷作りをした

さだ氏が幼少の頃、お父上が事業に失敗された。それまで住んでいた邸宅を引き払うという歌だ。小学生のころの僕は、平凡ながら堅実なサラリーマン家庭に育っていた。歌の出だしから想像の外の世界だった。

 それから移り住んだのは
 学校の裏通り


 そこではじめて家で過ごす
 親父の背中を見た

2番はこの歌詞で始まる。負債を抱え、立派な家を引き払い、裏通りにある暗く小さな借家に移る。それまで休日もなく、昼夜を問わずバリバリと働いていたお父上は、傷心のまま家で一日を送ることになった。

小学生の僕が一番分からなかったのは、これに続く次のフレーズだ。

 ひとつ覚えているのは
 おばあちゃんが我が子に


「負けたままじゃないだろう」
 と笑い乍ら言ったこと

当時の僕は「おばあちゃんが我が子に負ける」ってどういう意味やろ?と思っていた記憶がある。あー、ほんま阿呆やね。

今の僕は、このフレーズの意味が身にしみる。おばあちゃん、つまりお父上のお母さまは、傷心で塞いでいる息子に対して声をかけている。精一杯気を遣いながら。勇気づけながら。

いくら本人が納得していても、家族の気持ちは穏やかではないだろう。その本人が残念さ、無念さを隠しきれないでいるのなら、なおさらだ。

実際、僕は実家の母にとても心配をかけているようだ。今月初め、メールをもらって僕の心は錐で刺されるように痛んだ。

9月になりました。いつも あなたのメールにどうしているかと 光があたることを報われると信じて朝を迎えています。

このまま負けたままじゃないだろう、と。心配掛けて申し訳ない。申し訳ないけれども、僕にはもう「立身出世」という意味での光があたることはないのです。

でも心配しないでください。何が勝ちで何が負けか、人生終わってみるまで分からないですよ。

 人生は潮の満ち引き
 来たかと思えばまた逃げてゆく


 失くしたかと思えばまた
 いつの間にか戻る