首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

下り日や拝まぬ

夕陽を眺めに、二日続けて西桟橋へ。

夕陽を眺めるのは子供のころから好きだった。西方浄土に憧れて?いやいや、そんな大げさなことではなく、ただただ単純に美しかったから。

大阪には夕陽の素晴らしい場所がたくさんあった。聞くに、「日本の夕陽百選」には大阪は実に9箇所が選定されている。もちろん全国最多だ。選定されている四天王寺からの風景は確かに瞬きを忘れるほどの美しさだ。僕の大好きな場所だった。

でも、選定されるような特別な場所だけではないのだ。淀川を渡るJRや阪急の車窓から、高校の屋上から、中学校のプールサイドから、小学校の渡り廊下から。西の都・大阪は絵になる夕陽の宝庫だったんだと今更に思い返す。

不思議なことに、この日本の夕陽百選のなかに、沖縄はひとつも選定されていない。この竹富の夕陽が含まれていないとは!本島の恩納リゾート地帯を走る国道58号線からの眺めは絶品だし。まだ見たことはないのだが、日本の最西端・与那国島の落日はさぞやとも思う。

沖縄に生まれ、沖縄に生きる人にとって、夕陽にはさしたる思い入れがないのかもしれない。実際、沖縄には「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ」という俚諺*1があることを、僕は沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の書物で知った。

沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいという事である。


沖縄人はとかく恩を忘れやすい人民だという評を耳にする事があるが、これはどうしても弁解し切れない大事実だと思う。


自分も時々こういう傾向を持っている事を自覚して慙愧(ざんき)に堪えない事がある。思うにこれは数百年来の境遇が然らしめたのであろう。


沖縄においては古来主権者の更迭が頻繁であったために、生存せんがためには一日も早く旧主人の恩を忘れて新主人の徳を頌するのが気がきいているという事になったのである。


しかのみならず、久しく日支両帝国の間に介在していたので、自然二股膏薬主義を取らなければならないようになったのである。


「上り日ど拝みゆる、下り日や拝まぬ」


という沖縄の俚諺はよくこの辺の消息をもたらしている。実に沖縄人にとっては沖縄で何人が君臨しても、支那で何人が君臨しても、かまわなかったのである。


伊波普猷「沖縄歴史物語―日本の縮図」平凡社

脳裏に、リスク管理部時代の部下の一人が思い浮かんだ。

信用リスクの計測手法、内部格付けのモデル構築について、彼には誠意をつくして教示した。何一つ秘匿しなかった。会議やベンダーとの会談の場、当局のヒアリングにも同席できるようにした。他行の先進事例を収集するための出張にも同行させた。

最先端のノウハウは、ふんだんに彼に降り注がれた。一流の人脈は彼にすべてつながれた。沖縄という地に、確実に本土レベルのリスク管理の根が張った。それは客観的に見ても間違いないはずだ。

恩を売るつもりはない。しかし彼は僕を売った。僕の上司は彼の人事の最終考課者でもある。両天秤にかけ、彼はそちらを選んだ。上司の指示なのか、それともその意を汲んだのか、いくつものちいさな嫌がらせをたくらみ、実際に仕掛けてきた。廊下で会っても、彼は眼を合わせることをしなくなった。

しかし僕は若い彼を責めるつもりはない。そう、彼だけの問題ではないのだ。先の伊波普猷は次のように続ける。

「食を与ふる者は我が主也」という俚諺もこういう所から来たのであろう。


沖縄人は生存せんがためには、いやいやながら娼妓主義を奉じなければならなかったのである。実にこういう存在こそは悲惨なる存在というべきものであろう。この御都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる。


これは沖縄人の欠点中の最大なるものではあるまいか。


世にこういう種類の人程恐しい者はない、彼等は自分等の利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない。

*1:りげん:民間で言い慣わされていることわざ