首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

腕時計を左腕に

今月から腕時計を左腕に戻した。

久しぶりに腕時計を使う生活だ。ふと思い立ち、腕時計を左腕に戻してみたところ、違和感無くはめることができた。

僕は右利きなので当然左腕の方が都合が良い。文字を書くときも邪魔にならないし、リューズも回しやすい。

もともとは左腕につけていた。右腕にするようになったのは2008年の冬から。奥穂高で滑落事故を起こし、左手首を折った。橈骨遠位端骨折。骨が脆くなったお年寄りにはよく起きるらしい。

僕の場合、骨が強く固かった分、勢いよく骨が割れて弾け散ってしまった。「これは一筋縄ではいかないので、東京できちんと手術を受けた方がいい。」最初に診察を受けた松本市内の病院でそう言われた。もうピアノは弾けないかも。最終のあずさの車内、そんな覚悟をしながら新宿に戻った。
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歌舞伎町の大久保病院に入院した。落ち込む僕に、整形外科医の親友がアドバイスをくれた。「またピアノが弾きたい、と担当医にいうといい。真っ当な医師なら、この言葉を言われるとオペの時の気合いが一段上がる。」2週間後、チタンプレートで固定する手術を受けた。

手術は終わった。「無事に成功しました。」といわれたが、正直その実感はなかった。実際のところ、腕時計するどころの話ではない。ギブスが取れてからも、タオルを絞ることもできず、ドアノブをひねることもできない生活。来る日も来る日も、リハビリのトレーニングを続けた。

先生の見事な手術、それと熱心なリハビリ指導がおかげだ。見る見るうちに手首の可動域は広がり、生活には支障がなくなった。オフィスに行き、いつもどおり仕事を始めた。PCのキーボードは手首への負担が小さく、すぐに使うことができた。負担をかけないため、腕時計は右につけた。

ピアノの鍵盤に指を置くことができるようになり、弾けるようになり、そして叩けるようになった。うれしかった。ギターのフレットを押えるには時間がかかった。それでも首里に越してきた頃には、普通に弾けるほどまで回復した。もう絶対ギターは無理だろうと思っていたのに。
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2010年の春。那覇市立病院でプレートを除去する手術を受けた。ゴルフクラブを握るようになったのは、この時からだ。沖縄に来て1年。とうとうゴルフが始められるようになった。

それでも時計はずっと右のままだった。GMT Masterのメタルバンドはきつくて入らなかった。換えコマを探せばよかったのだが、その余裕はなかった。腕が太くなったのは、チタンプレートが入っていたからだと思っていた。しかしプレートを手術で取り除いても、時計の窮屈さは変わらなかった。「骨の形が変わってしまったのかもしれないな。」そんな風に勝手に納得した。

いつのまにか、時計を右腕にすることにも抵抗がなくなってしまった。沖縄の銀行での砂を噛むような苦しい毎日。時計の右左などどうでもよかった。ついに昨年夏。銀行を見切り、時計をする必要がない落ち着いた生活に切り替えた。
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そして、今月から腕時計を左腕に戻した。久しぶりに腕時計を使う生活だ。ふと思い立ち、腕時計を左腕に戻してみたところ、違和感無くはめることができた。術後は腕が腫れていたからかもしれない。その頃は一番肥っていた時期。腕まで脂肪が付いていたのだとしたら恐ろしい。

いずれにせよ、いつの間に、長い長い時間が経っていたのだ。

時計をはめた左腕を見て、ペンを走らせ易くなった右腕を見て、今日は改めてそんなことを実感した。