首里に住まう男

沖縄の古都、首里に移り住んだ関西人の表の顔

土曜ドラマ「七つの会議」

期待していた最終回だったが、ガックリ。元小説と全く筋が違っているけど、こんな改編(改悪)許されるのかね?

大上段から「原作に忠実にあるべき」と断ずるつもりはない。大胆な解釈や改変を加えた作品に出会い、「これぞ換骨奪胎」と、快哉を叫んだこともある。

だからこそ、今回は期待していたのだ。最終回に到るまでの展開、すでに原作の軌道を大きく外れていた。しかし、真に迫るキャストの演技、いかにも美しい沈んだ群青の映像、さらには苦悩の中で響く鼓動のようなエンディングテーマ。そのいずれもが最終回における最高のクライマックスを予感させた。もちろん、その予感のベースとして、原作を読んでいた時、そして読み終えた時の興奮があった。「あの原作なら、期待できる。」

それにしても、今回のドラマの結末はお粗末だった。結末そのものというよりは、最終回全体がともかくお粗末だった。今はガックリ感のほうが強いので詳細を書く元気がないが、小さな事例をひとつだけ記しておくことにする。

元営業1課長の坂戸宣彦は懲戒解雇処分となった。画面に映ったのは、坂戸の兄が経営する千葉館山の小さな薬局の店先。白衣を着た坂戸が笑顔で客に対応している。

いやあ、ありえないでしょう。坂戸はお兄さんから「サラリーマン人生」を譲ってもらったんだぜ。実家の経営が傾き、肉親の介護問題も噴出した時、大手銀行のキャリアを手放し、赴任中のシンガポールから帰国した兄。その兄から「俺のサラリーマン人生はお前に譲った。がんばれ。」とバトンを渡されたんだぜ。優秀な兄は、その後実家の経営もなんとか立て直した。その兄の店で、なんで笑顔で、働くことができるんよ。

原作は違う。坂戸は以前に担当した取引先の一つに拾ってもらい、働いたことになっている。サラリーマン人生を続けている、いや、サラリーマン人生をもう一度始めたと描かれているのだ。

これはとても納得がいく。坂戸の生き方に共感できる。男なら(人間なら)、どれだけ収入が減っても、どれだけ苦しくても、守るべき矜持というものがあるはずだ。これ以上兄に頼ったら、たとえ一瞬でも兄の薬局で働かせてもらったら、残りの人生はもう兄には頭が上がらない。社会で自分の果たすべき役割というものを、男なら(人間なら)常に自分に問うている。それを坂戸は兄と確認しあったはずだ、直接言葉にしなくても。どう考えても、兄のところで働くという選択肢を坂戸が採るのはありえない。

細かいところにこだわりすぎだろうか?いや、そうは思わない。原作を読んで感心したひとつは、ディテールにこだわりつつ、それを全体へと仕立てる構成力の高さだった。ある出来事の背景に一人の人間の小さな心の動きがある。ある出来事が別の小さな出来事と結びついている。偶然なのかもしれないし、必然だったのかもしれない。小さな揺らぎが何時の間にか大きな波となって押し寄せ、組織や人生を洗い流す。洗い流した大きな波も、最初は小さな揺らぎに過ぎなかった。原作にはそのようなうねりが、説得性を持って描かれていた。それを裏付けていたのは、ディテールへのこだわりだったと思う。

実際のところ、制作時間に余裕がなかったのだろうと推測。これは脚本家への同情だ。「たった一瞬の画のために、坂戸の再就職先のロケをわざわざ敢行する? もう編集迫ってて時間ないんだよな~。坂戸薬局の前で一枚撮っとけば済む話だろ? 脚本の○○さんにもそういっといてよ。別に矛盾はないでしょ?」ここまで露骨ではないとは思うが、これに近い“大人の事情”と“ギリギリの判断”があったんではないかな。

しかし、その判断がすべてを台無しにする。名作になるかどうかは、このレベルの「拘り」「作りこみ」が分かれ目になるんだと思う。この点に関しては脚本家さん、お気の毒でした。現場の小さな妥協が、名作になりかけていた作品の重厚さをスポイルしてしまいました。