布施の夜
約束の午後5時に少し遅れてしまった。奈良線の4階ホームから大阪線の3階ホーム、さらに2階改札口へ。エスカレータも混んでいたので階段で一気に駆け下りた。
改札口の向こうで、奴は手を振った。ちょっと照れくさいが、僕も手を振り返した。
「お疲れさま。で、スコア聞いたほうがいいんかな?」僕はいった。奴はホームコースの月例会。仕事が忙しいなか、ゴルフの精進は続けているらしい。「まずまずやな。今日はいい天気で、言い訳できんわ。」そういって笑った。
布施といえば「すし富」。名店の握りを堪能する。「関西で喰う寿司は、ともかく白身やからな。」鯛と平目から始まり、目を見張るような大トロへ。最後は「今はすし屋で食うのが一番うまいから。」といって、鰻を注文してくれた。関西流の直焼き、表面がカリッとしていて最高に美味かった。
二軒目は近くのワインバー。まだ日も残る6時半、しかも三連休の最終日ゆえ、客は僕らだけ。店の名を戴いた看板のスパニッシュワインを注文する。「まあ、無職の生活とやらを聞かせてもらおうか。」おお、望むところだ。
目覚まし時計を使わない生活を1ヶ月続ければ、ほとんどの人は体調が戻ってしまうと思う。まずそんな話から。さらに「つまらないことだけど、意外とこれが効いた。」と続けた。
例えば、スピーカーの位置を少し動かすこと。積み上げていた資料をスキャンして捨てること。買ったままのCDを通して聴くこと。
一つ一つは小さな事柄。「時間ができたらやろう。」と思っていたことが、できないまま少しずつ少しずつ積みあがり、まるで根雪のように心の垢としてたまっていた。仕事を辞めてから、それを時間をかけて、ゆっくりゆっくり剥がしていった。
「ああ、それはよく分かるわ。」奴はいった。いや、僕の場合は単にこれまでがズボラすぎただけでね。患者が引きもきらずやってくる、腕利きで評判の開業医の多忙さとは比べモンにならんよ。
ゴルフのこと、STAP細胞のこと、これからのこと。話しているとあっという間に時間が過ぎた。今夜の美味い寿司と美味いワインにお礼を言った。
「階段を軽い足取りで駆け下りてくるのを見て、ああ何も心配いらんな、と思ったわ。」奴はそういった。
そうかもしれんな。うん、お前がそういうなら、たぶん心配はいらんと思う。