小澤征爾/私の履歴書
昨日まではリアル「千秋センパイ」だった。ちょっぴりドジも踏みつつも、京子ちゃんと甘い留学生活。見事コンクールで第一位を取り、カラヤン・バーンスタインに師事。米国で評価を得て日本へ凱旋。ああ、なんというサクセスストーリー。
そして今日はいよいよ有名なN響事件。文化人を巻き込んだ社会問題にまで発展した。この事件以降、小澤さんは完全に活動の場を海外に移した。なぜ小澤さんは日本であまり演奏しないか、子供の頃の僕はよくわからなかった。
今日の記事*1でその発端が小澤さんの言葉で明かされた。驚いた。
フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
ベートーヴェンのPコン1番のカデンツァかぁ。カデンツァの途中で指揮棒を上げた「だけ」なのだから、音に集中している聴衆には分からなかったはずだ。独奏者にもおそらく影響はなかっただろう。
十分に言い訳も可能だ。「若造」指揮者に対して、老獪なオケメンバーがチクチクと嫉妬含みの嫌がらせしたことも想像できる。けれども「ミスだった」と小澤さんははっきりと認めた。
僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
これが名声を欲しいままにしている大御所の言葉だ。なんとも謙虚過ぎる。
その後32年もの間、小澤さんはN響を決して振ろうとしなかった。これに照らしても、小澤さんの心の痛み、恨みにも似た感情は想像するに余りある。
しかし、この言葉が小澤さんから出てくるのだ。驚いたし、深くため息が出た。
32年先、僕がもし生きているとして、あの沖縄の銀行に対して、銀行から受けた仕打ちに対して、このような言葉が出るだろうか。